そして「また会いましょう」と約束し、いろんな
所を旅しながら4年ぶりに長府へ帰ってきます。
父は藩のお抱え医師となり、坊主頭になっていま
した。
下関ゆかりの偉人紹介
日本中を旅して
俳句詠んだ女性
田上 菊舎
34 歳になった夏、百茶坊(ひゃくちゃぼう)という
菊舎(きくしゃ)は下関生まれで、日本中を旅して俳句を詠んだ江戸時代 仲間と旅に出て、途中から一人で長崎へ行くことになります。好奇心
の女性の俳人です。1753 年 10 月 14 日長府藩の武士・田上由永(よしなが) のかたまりのような菊舎にとって、長崎は唯一外国に開かれた町なの
の長女として豊北町田耕に生まれました。本名は「ミチ」。
でとても気に入ります。中国人やオランダ人から漢詩や七弦琴などを
田耕の野や川のなかで育ち、留守がちの父に代わり読み書き・ソロバン 習いました。
は村医者をしていた叔父から教えを受けました。16 歳の時、近所に住む
38 歳のときには京都へ行き、吉野やいろんな場所を回ります。各地
村田利之助に嫁ぎます。村田家の人たちは信仰心が厚く、俳句を詠みまし を歩き、生涯で歩いた距離は生涯で 2 万 2 000 ㌔にもなりました。ま
た。しかし、ミチが 26 歳の時に夫の利之助が急死。一人で生きて行く決 た行く先々で性別に関係なく、子供からお殿様までいろんな人と交流
心をしたミチは、俳句を生涯の友として生きることにしました。
ここに「菊舎」の誕生です。
しました。
愛
用
の
頭
蛇
袋
72歳の時にふるさとの田耕に帰り、74歳のとき長府の印内で生涯を
閉じました。お墓は長府金屋町の徳応寺と長府中之町の本覚寺にあり
ます。
芭蕉の足跡訪ね旅立ち
長府にいる父母に相談したところ“お坊さんになること!俳句の修行を
愛
用
辞世の句は 無量寿の宝の山や錦時 (心の中には宝物がいっぱ
の
頭
すること”を条件に許してもらいました。29 歳の秋に出発します。青海島 い ありがたい一生でした 私の心は紅葉の錦のように明るく この
陀
袋
から萩へいき、清光寺でお坊さんになる為の儀式をして尼僧となり、美濃 まま仏の国に生まれさせていただきます)
(岐阜県)の師匠に弟子入りするため旅立ちます。
※ 60 歳の時、法隆寺の御開帳に巡り合い、特別に許されて中国伝
当時は全て歩きですし、大変な旅です。一か月以上かけてやってきた菊
舎に先生や美濃の人たちは驚きます。当時はそれぞれの先生宛に紹介状を
書いてもらい頭陀袋(ずだぶくろ)に入れて持ち歩きました。紹介状さえあ
れば宿の心配なく仲間に入れてもらえたのです。
来の「開元琴」を演奏しています。
菊舎が諸芸を磨きながら旅した距離は、北は松
島から南は阿蘇・長崎までの各地で、その総長距
離は2万2千㌔に及びます。「歩行神(あるきがみ)」と
も呼ばれ「江戸時代で最も旅した女性」と言われ
ています。
当時から俳聖と言われていた松尾芭蕉の訪れた地を訪ね歩くことがあこが
れでした。菊舎もそれを目指しました。決して楽しいだけの旅ではありま
せんでしたが、もっと上手にと勉強に励みます。江戸に向かい、一年半ほ
ど江戸で習字や絵やお茶も習います。